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アメリカ学派 (経済学) : ウィキペディア日本語版
アメリカ学派 (経済学)[あめりかがくは]

アメリカ学派(、または全国的システム、)は、政治、政策および哲学における3つの異なるが互いに関連する構成概念を表すものである。1860年代から1940年代にかけてのアメリカ合衆国の政策であり、政策実行の程度や詳細において一進一退していった。歴史学者のマイケル・リンドは他の経済学概念との論理的概念的関係で分かりやすく適用された経済哲学だと表現している〔 "Free Trade Fallacy" New America .〕。
南北戦争の時から20世紀半ばまでアメリカ合衆国の国策を支配したのはマクロ経済学的哲学である〔"Second Bank of the United States" U-S-History.com .〕〔"Republican Party Platform of 1860" presidency.ucsb.edu 〕〔"Republican Party Platform of 1856" presidency.ucsb.edu .〕〔Pacific Railway Act (1862) ourdocuments.gov .〕〔ANDREWS, E. Benjamin, Page 180 of ''Scribner's Magazine'' Volume 18 #1 (January–June 1896); "A History of the Last Quarter-Century".〕(重商主義に密接に関わり、ケインズ経済学に先行している。古典派経済学に対抗するものと見ることもできる)。中核となる次の3つの政策で構成されている。
# 物品によって選択的な高率関税を適用する(特に1861年-1932年)こと、および助成金を支給する(特に1932年-1970年)ことで製造業を保護する
# 内国改良(特に交通)を目的としたインフラの建設に政府が投資する
# 投資よりも生産的事業の成長を促進する政策を持つ国定銀行を維持する〔Lind, Michael: "Lincoln and his successors in the Republican party of 1865–1932, by presiding over the industrialization of the United State, foreclosed the option that the United States would remain a rural society with an agrarian economy, as so many Jeffersonians had hoped." and "...Hamiltonian side... the Federalists; the National Republicans; the Whigs, the Republicans; the Progressives." — "Hamilton's Republic" Introduction pp. xiv–xv. Free Press, Simon & Schuster, USA: 1997. ISBN 0-684-83160-0.〕〔Lind, Michael: "During the nineteenth century the dominant school of American political economy was the "American School" of developmental economic nationalism... The patron saint of the American School was Alexander Hamilton, whose Report on Manufactures (1791) had called for federal government activism in sponsoring infrastructure development and industrialization behind tariff walls that would keep out British manufactured goods... The American School, elaborated in the nineteenth century by economists like Henry Carey (who advised President Lincoln), inspired the "American System" of Henry Clay and the protectionist import-substitution policies of Lincoln and his successors in the Republican party well into the twentieth century." — "Hamilton's Republic" Part III "The American School of National Economy" pp. 229–30. Free Press, Simon & Schuster, USA: 1997. ISBN 0-684-83160-0.〕〔Richardson, Heather Cox: "By 1865, the Republicans had developed a series of high tariffs and taxes that reflected the economic theories of Carey and Wayland and were designed to strengthen and benefit all parts of the American economy, raising the standard of living for everyone. As a Republican concluded... "Congress must shape its legislation as to incidentally aid all branches of industry, render the people prosperous, and enable them to pay taxes... for ordinary expenses of Government." — "The Greatest Nation of the Earth" Chapter 4, "Directing the Legislation of the Country to the Improvement of the Country: Tariff and Tax Legislation" pp. 136–37. President and Fellows of Harvard College, USA: 1997. ISBN 0-674-36213-6.〕〔Boritt, Gabor S: "Lincoln thus had the pleasure of signing into law much of the program he had worked for through the better part of his political life. And this, as Leornard P. Curry, the historian of the legislation has aptly written, amounted to a "blueprint for modern America." and "The man Lincoln selected for the sensitive position of Secretary of the Treasury, Salmon P. Chase, was an ex-Democrat, but of the moderate cariety on economics, one whom Joseph Dorfman could even describe as 'a good Hamiltonian, and a western progressive of the Lincoln stamp in everything from a tariff to a national bank.'" — "Lincoln and the Economics of the American Dream" Chapter 14, "The Whig in the White House" pp. 196–97. Memphis State University Press, USA: 1994. ISBN 0-87870-043-9.〕
アメリカ学派はハミルトンの経済計画に基礎を置く資本主義経済学説である〔hmco.org 〕。資本主義の中のアメリカ学派はアメリカ合衆国が経済的に自立し、全国的に自活していくようになることを意図した。
アメリカ学派の重要な要素はジョン・クインシー・アダムズとその国民共和党ヘンリー・クレイホイッグ党、およびエイブラハム・リンカーン共和党の初期で促進され、この経済制度を取り入れ、実行し、維持された〔J.L.M. Curry, "Confederate States and Their Constitution", ''The Galaxy'', New York, 1874 cornell.edu 〕。
そのアメリカ・システムを実行する間に、アメリカ合衆国は世界の経済大国に成長し、高い生活水準を達成し、1880年代にはイギリス帝国を追い越した〔Gill, William J. "By 1880 the United States of America had overtaken and surpassed England as industrial leader of the world." — "Trade Wars Against America: A History of United States Trade and Monetary Policy", Chapter 6, "America becomes Number 1" pp. 39–49. Praeger Publishers, USA: 1990. ISBN 0-275-93316-4.〕。
== 歴史 ==

=== 起源 ===

経済学のアメリカ学派はアレクサンダー・ハミルトンの流れを汲むものであり、ハミルトンが連邦議会に報告した『製造業に関する報告書』で、アメリカ合衆国は必要とされるあらゆる経済的産物で自活できなければ完全に独立したとは言えないと論じた。ハミルトンはこの経済論をフランスジャン=バティスト・コルベールおよびイギリスエリザベス1世時代の一連の制度に一部負っているが、市場として植民地を求めるような重商主義の不快な側面は拒否した。この考え方を熱烈に支持して「アメリカ・システムの父」と呼ばれるようになったヘンリー・クレイ上院議員が後に定義したように、アメリカ・システムは国の北と南、東と西、および都市と農夫を統一するものだった〔George D. Prentice, "Life of Henry Clay", ''The North American Review'', Boston Massachusetts, 1831 〕。
フランク・ブルギンによる1989年のアメリカ合衆国憲法制定会議の研究書では、建国の父達が経済に直接政府が関わることを意図したとしている。これは連合規約の下で国が味わった経済と財政の混乱を克服する必要性があると考えられたことと関係があり、国家統制経済としたいという望みには関連していなかった。その目的はハミルトンによってほとんど強制的に書かれたものだが、懸命に政治的独立を勝ち取ることを確実にすることであり、ヨーロッパの強国や君主に経済および財政で依存した状態で失われてはならないということだった。強力な中央政府を創るということは、科学、発明、工業および商業を促進でき、社会的福祉を高める基本手段と見られ、さらにアメリカ合衆国の経済を自身の運命を決定できるだけ強くすることだった。
南北戦争に至る時代に行われた多くの連邦政府による計画がアメリカ学派に形と存在感を与えた。これらの計画には、1802年の特許局の設立、1807年の海岸測地測量局の創設、1824年の河川港湾法によって生まれた川と港の航行性を改善する手段がある。1804年のルイス・クラーク探検隊に始まり、1870年代にまで続いた西部への軍隊遠征(例えばスティーブン・ハリマン・ロング少佐やジョン・C・フレモント少将)は、ほとんどすべてが陸軍工兵司令部の士官の元に行われ、それに続いた陸路開拓者に重要な情報を与えた(例えばランドルフ・B・マーシー准将)。初期の鉄道や運河の測量と建設には援助と指揮のために工兵技師が任命された。第一合衆国銀行第二合衆国銀行が設立され、様々な保護貿易手段(例えば1828年関税法)が採られた。
計画の指導的提唱者は経済学者のフリードリッヒ・リスト(1789年-1846年)やヘンリー・キャリー(1793年-1879年)だった。リストは19世紀のドイツ系アメリカ人経済学者であり、計画を「ナショナル・システム」と呼び、その著書の中でさらに展開した〔''The National System of Political Economy'' 〕。キャリーは著書『関心の調和』の中でこの計画に著書名と同じ名前を付け、労働者と管理者の調和、農業、製造業および商業の調和を訴えた〔Harmony of Interests 〕。
「アメリカ・システム」という名前は、当時の競合する経済学理論とは1つの思考学派として区別するために、ヘンリー・クレイが考案したものだった。例えばアダム・スミスの『国富論』では「イギリス・システム」が出てきていた〔cornell.edu 〕。
アメリカ学派には主要な3つの論点があった。
The American School included three cardinal policy points:
# 「製造業の支援」、保護貿易主義を提唱し、自由貿易に反対する。特に「競争力のない工業」と海外から輸入される競合品に対抗するものを保護する。施策として、1816年関税法やモリル関税法があった。
# 「物理的インフラの創出」、政府が内国改良に資金手当することにより商業と工業発展の速度を上げる。これには民間が所有するインフラを規制し、国の需要に合わせさせることが含まれる。例えば、カンバーランド道路ユニオン・パシフィック鉄道がある。
# 「財政的インフラの創出」。政府の後援する国定銀行が通貨を発行し、商業を奨励する。これには債権の規制に関する主権を利用し、経済の発展を促し、投機を抑えることが含まれる。例えば、第一合衆国銀行と第二合衆国銀行および国定銀行法がある〔。
アメリカの指導的経済学者で、エイブラハム・リンカーンのアドバイザーだったヘンリー・キャリーはその著書『関心の調和』で、このアメリカ学派経済理論がアダム・スミスやカール・マルクスとは異なっている2つのポイントを以下のように挙げている。
# 政府が科学の発展、公立「普通」教育制度による公共教育、および認定と補助金を通じた創造的研究への投資を支援する。
# 企業主と労働者、農夫と製造者、富裕階級と労働者階級の間の「関心の調和」を進めるために階級闘争を否定する〔Henry C. Carey, ''Harmony of Interests''〕。
キャリーはその『関心の調和』の中で、アメリカ・システムとイギリス・システム両経済学の違いを以下のように説明している。

政府が不換紙幣を発行する事も1830年代以降アメリカ学派の考え方に沿ったものだった。この政策は植民地時代のアメリカに端を発するものであり、コロニアル・スクリップ(植民地証券)と呼ばれた一種の通貨が流通手段となった。1837年には既にジョン・カルフーンが負債が無い通貨を発行し政府が制御することを要求していた。そのような政策は銀行の利益を減ずるものであり、これに反応した銀行はイギリス学派の支持に回り、1800年代を通じて金本位制を信奉した。
南北戦争の時に正金が不足し、アメリカ合衆国紙幣あるいは「グリーンバック」と呼ばれる不換紙幣を発行することになった。戦争が終息に向かっていた1865年3月、リンカーンの経済顧問ヘンリー・キャリーが、「イギリスと戦うこと無くしてこれを凌駕する方法」と題する一連の文書を下院議長に提出した。キャリーはグリーンバックの政策を戦後も継続することを要求し、また銀行の支払準備率を50%にまで引き上げることも要求した〔Making of America Books 〕。このことはアメリカ合衆国が諸外国資本(主にイギリスの金)に依存しない経済を発展させられることを意味していた。キャリーは次のように記している。

翌月リンカーンが暗殺され、後継者のアンドリュー・ジョンソン大統領は金本位制を支持したので、キャリーの計画は実現せず、1879年にアメリカ合衆国は完全な金本位制になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アメリカ学派 (経済学)」の詳細全文を読む



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